Aoi

向き合うこと

 

 

 

久々の病院。
細胞が、冬に向かうのを全力で嫌がっているのかな。毎年この時期はいつも、なにかしらの体と心の不一致がおきて、体がブレーキをかけたがる気がする。
小さい子供が床に転がって、思うままに手足を突っ張ってジタバタさせて、ヤダヤダヤダ!と駄々をこねているような。

呼吸すらままならないと、慣れているとはいえこのまま息ができなくなるのではと、体の全てで身構えてしまう。

 

 

点滴が落ちるのを待つ時間、あれやこれやと思いをめぐらす。自分への失望と、ここにいれば大丈夫、という安心とが綯い交ぜになる。


時折ゆれる白いカーテンの向こう側で、顔のみえない誰かの足音、声、息遣いを感じて、少しホッとする。
紗幕の向こう側で、影絵の生き物がゆらゆら揺れている。良かった。夜は特に心もとなくなるから。あまり孤独を持て余すと、余計なことまでグルグル考えてしまう。


こういうとき、つめたくて悲しい気持ちが、ひたひたと、胸の内に押しよせてくる。
そのつめたさで押し潰されそうになるときは、村岡花子さんの歌を何度も心の中で繰り返します。


「まだまだと おもいてすごしおるうちに
はや死のみちへ むかうものなり」


死を覚悟した彼女が、7歳の時に病の床で詠んだ歌。
梨木香歩さんの『不思議な羅針盤』を読んで知って以来、気持ちがふらふらと不安な方へ転げ落ちていきそうになるたび、落ちきってしまう寸前のところで、この歌が、袖をつまんでひっぱるようにして私を引きとめてくれる。

彼女が病気を治したあとに詠んだ歌より、何故だか、この歌の方が胸にしんと染みるのです。


自分ではどうすることもできない悲しいことや辛いことを目の前にすると、「大丈夫」って強がるよりも、そのつめたくて圧倒的な真っ黒い感情にいっそ身を任せてしまった方が楽なのでは、と思えるときがある。

けれどこの歌は、その渦中にいながら、強がるのでなく、悲嘆に暮れるのでなく、ただ淡々とそのことと向き合っているような、ある種の清々しさのようなものを感じるのです。

 


その清々しさが、私はうらやましいのかもしれない。

 

そんなふうに、向き合えたら。

向き合えるようになりたい。